「淡交」紅雲 徒然コラム特別編
4 淡交
私と岩上さんとの付き合いを語るのに、淡交という言葉は少し美しすぎるのだが…。 岩上さんとは、この20年の間、多い年でも月に一度会うか会わないかという程度であった。 大抵が、私が彼の都合も聞かずアポなしで事務所に出向き、1時間、あるいは1時間半、とりとめもない言葉を交わして、「じゃあ、また」と引き上げる、そんな付き合いだった。 事務所以外で会ったことは、おかまバー、小料理屋、焼肉屋、と片手で数えられるほどである。付き合いの頻度で言えば、まさに淡交であった。
ここ数年は、私が中泉の事務所の扉を押すと、素透しガラスの中扉の向こうに、お気に入りのコルビジェの長椅子に横たわって音楽を聴いている、あるいは映画を観ている彼の姿があった。 「どう、体の調子は?」「どう、会社の調子は?」が、お決まりの始めの言葉。 それから、オープンハウスの予定や、オークションで落札した服(お互いのサイズの合わない古着を交換し合ったこともあったなあ)のことや画集のこと、椅子のこと、 久しぶりに東京へ行った話、知り合いの銀座のママからプレゼントが届いたこと(これは少し自慢げに)などがポツリポツリと彼の口から出た。
岩上さんは私とは同い年である。 若い時を東京で過ごし、私が話す当時の新宿のジャズ喫茶の鬱屈とした様子やヒッピー達が集まる喫茶店の光景、寺山修二の天井桟敷や唐十郎の赤テントの熱狂、 池袋の名画座で徹夜で観た網走番外地などを岩上さんもよく知っていた。私には及ばないはぐれ者的な暮らしをしていた時期があって、ゴールデン街を彷徨ったりしていたらしい。 また、岩上さんは千葉の出身で、何の地縁もない群馬で工務店を始めたことを聞いたときには、私の父とダブって余計にシンパシーを感じたものだ。 私の父も建築士で、生前、前橋で工務店を経営していたが、出身は東京で、この群馬には縁のない人だった。
驚いたのは、建築デザイナーになる前は、ある工業用潤滑油剤の販売会社の高崎営業所長をしていたと聞いたときだった。 あの顔で営業所長!考えられない。さらに驚いたのは、私と出会ったときは建築デザイナーに転進してまだ間もないということだった。 20年も前からデザイナーです、という顔をしていたのに! ということは、私は40過ぎの新米の建築デザイナーが社長を務める工務店、バウハウスに家造りを依頼したことになるではないか。 しかし、建築は総合芸術である。岩上さんは、社名にしてしまったバウハウスについてはもちろんのこと、建築、絵画、音楽、文学、陶芸、エトセトラと、幅広い知識と旺盛な興味をもっていた。 そして、とても洒落者だった。そうした全人格的な豊かさが、たとえ新米デザイナーではあっても、あの「顔」ににじみ出ていたのだと思う。








